摂理はカルト宗教なのか?

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摂理はカルト宗教なのか?

「摂理」のことを知らない人の中でそのような疑問を持つ人が少なくない。
摂理のことを調べてみると、「カルトだ」と思ったり「野蛮な宗教だ」と思ったりする情報が多いことは確か…
残念なことに、ネット上にはあることないこと、様々なことが書かれているのが現状だ…
しかし、書かれている内容を見てみると、「摂理」という宗教について何を知ってそのように書いているのか?という疑問が浮かぶ内容ばかりだ…
そのような内容に振り回されず、すべての人たちに摂理の真実が伝わることを願う思いで綴りたいと思う。

日本人は「宗教」という単語そのものに抵抗があると思われる。
「宗教にハマるとやばい」「変な壺を買わされるのでは?」などという懸念を宗教に対してを持っている人もいる…

以前、私は父に「宗教を始めた」と話をしたことがある。
摂理では何も隠さなければならないようなことはしていない、父にも理解をしてもらいたい、という思いで話を切り出した。
父は「人間は何かに頼らないと生きていけなくなる時がある。お父さんもそういう時があったから。別にいいんじゃないか?」と言った。
私は「お前、ついに宗教にハマったのか?」などの拒絶反応をするのではないかと考えていたが、特に内容を聞くこともなく理解を示してくれたのだった。

「宗教」という単語を聞いて、私の父のように比較的肯定的に考える人もいるだろうが、
「宗教はとてもいいものだ!」と好反応を示す人はほとんどいないだろうと推測する。
単語には、その単語を聞く人が生きる中で多様に経験してきたことが単語そのものの意味に付加されてしまう。
例えば、「リンゴ」と言われれば、大多数の人が赤いリンゴを思い浮かべると思うが、青りんごを思い浮かべて「あの薄い緑色の果物だよね?」と反応する人が極めて少数であるようなことだ。
父の宗教に対する考えは、仮に過去どこかの宗教団体から何か物品を高値で買わされたと言ったような経験があったならば変わっていたことだろう…

この記事を読む人が「宗教」という単語に否定的な反応を示してもそれは仕方ないことだが、
「宗教」というカテゴリーの中に含まれる全てのものを触れることもせずに一切排除・批判することは待っていただき、
この記事を最後まで読み進めていただきたいと切に哀願する…

では、「摂理」という宗教がどんな宗教か、説明していきたいと思う。

 

摂理の教理(教え)とは?

摂理の教理(教え)は聖書がもとになっている。
聖書は誰かが作った話ではなく、過去実際にあった話・歴史上の史実だ。
聖書に登場する人物で架空の人物は存在せず、皆実際に生きて存在した人物であることを強調したい。
時折、イエス・キリストは実際には存在しなかったと主張する人がいるからだ。

聖書の中に書かれている言葉は真理である。
聖書の言葉だけが真理と言っているのではなく、様々な科学の発達によって真理の法則が明らかになってきているものも真理だ。
聖書の中の言葉は決して科学と相反しないことを是非とも記憶したい。

聖書の中に真理を求める人たちや、他の宗教や科学などの中で真理を探求する人たちが“真理”をめぐって争うことがある。
鄭明析牧師は真理は一つである。その説明の方法が違うだけである。真理には教派も国境もない。」と教えてくださった。
なるほど、互いに敵対している教理・思想・信条も根本をよくよく考えてみれば、説明の方法が違うだけということもあるかもしない…

聖書の言葉に関しては、多くの解釈が存在する。
真実・史実は一つであるにも関わらず、その解釈をめぐって宗教間で争いが起こっているのだ…

<ペテロの第二の手紙3章16節>
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

聖書には「無理な解釈をするな」と書かれている。
真理を探求する切実な思いが変質し、聖書の戒めを外れて無理な解釈をしてしまい、結局は自分自身が苦しい思いをしていることは本当に悲しい…

鄭明析牧師はこの聖書の箇所を通してこのように教えてくださった。

聖書を無理矢理に解いて行なう人とは、神様と聖霊様と御子主の真理から離れて、「自分の主観」で聖書を解いて行なう人を言います。
聖書は「神様の御心」どおりに解かなければなりません。

現実に成されたとおりに解かなければいけないし、無理矢理に解いたことは、歴史が過ぎていっても、聖書が成就しません。
(2015/06/28)

鄭明析牧師は聖書の言葉(真理)の正しい解釈を求めてご自身の青春全てを費やし、聖書を2千回以上読み、研究し、祈り、また、その聖書の言葉を一つひとつ行なうことによって数十年かけて読み説かれた。
鄭明析牧師は聖書の言葉を一つひとつ正しいかどうかを行なって確かめたからこそ、その解釈には一切の狂いがない。非の打ち所がない。
摂理の教理(教え)は鄭明析牧師が聖書の言葉から見つけ出した神様の御心であるということをまずは伝えたい。

 

摂理の教理(教え)の核心は愛

<マタイによる福音書22章34~39節>
さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

摂理の教理の核心は「愛」だ。
イエス様がおっしゃったように、神様を愛すること、そして、周りの人たちを愛することだ。

<マタイによる福音書24章12節>
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

昨今のニュースを見ていると悲惨な事件の数々に衝撃を受ける…
子供を車に置き去りにしギャンブル…熱中症で死亡…
家族を殺害…自身も自殺…
このような問題はすべて「愛」が冷え切っている世の中で起こる深刻な問題だと思う。

人は愛を求めて生きる存在であり、愛なしには生きられない存在だ。
しかし、「愛」について分からなければ、どうして「愛」を成して生きることができるだろうか?

<ヨハネの第一の手紙4章7~12節>
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

神様は愛の存在だ。
神様を知るときに愛を知ることができる。
神様が愛してくださったことを知ったときに神様を愛することができ、互いに愛し合うことができる。
鄭明析牧師は「愛は」という詩を書かれた。

「愛は」
花火のように
川のように
真理と共に
天と共に

短い詩だが、何度も何度も読み返すと愛の本質が見えてくる。
真理と共に、天と共に(神様と共に)するとき、その愛は真の愛になる。
真理・神様の御言葉から外れては真の愛だと言うことはできないし、神様抜きにはどんな愛も真の愛だと言うことはできないのだ。

伝道の書2章24~25節
人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。

この世の全ての富・名誉・栄華・権勢を得たソロモンが神様を離れてはならないと言った。
愛なしには生きられない人間を誰がどのように満たしてくれるだろうか、神様だということだ。

鄭明析牧師は「愛」に関する説教(御言葉)が一番得意だとおっしゃった。
絶えず神様を愛し、イエス・キリストを愛し、周りの人を愛してきたからだ。

マタイによる福音書5章44節
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

鄭明析牧師は聖書の言葉通り、敵までも愛した。
ベトナム戦争に参戦しながらも敵を一度も殺すことはしなかった。
詳細は『愛と平和だ』という鄭明析牧師の著書を読んでほしいのだが、
銃口を向ける敵にも「愛しなさい」という神様の御言葉を守って対峙したのだ!
鄭明析牧師のように敵をも愛するならば愛に冷めた世の中を愛溢れる世界へと変えることは不可能ではないだろう。

摂理では神様という存在を信じて愛するというが、それが一体どういうことなのか?と疑問に思う人がいる。
「神様を愛する」という言葉だけを聞くならば、やはり摂理は変な宗教だと誤解されるだろう。

ヨハネによる福音書14章21節
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

鄭明析牧師は神様を愛するということがどういうことなのか、はっきりと教えてくださった。
この聖書の言葉の通り、神様の御言葉を守ることだ。
神様の御言葉を守るということが、すなわち、神様を愛しているということだ。

「愛」という単語もやはり、正しく学ばなければその言わんとすることを誤解してしまう。
ある人にとっては男女の性行為のことを考える人もいるだろう。
そう考える人にとっては「神様と愛する」と聞けばビックリして「野蛮な宗教だ」「カルトだ」とレッテルを張ってしまうだろう…

鄭明析牧師は「愛するならば愛する人が望むことをすることだ。」と教えてくださった。
神様を愛するならば、神様が願うことをすることだ。
神様は願うことを御言葉で話されるため、神様の御言葉を守ることが神様を愛することだ。

鄭明析牧師は「分かって信じなさい」といつもおっしゃる。
ただ盲目的に、無理矢理に信じなさいとは絶対に言わない。
学問も学ばなければ何一つ分からないように、聖書について、神様について、愛についても学ばなければ分からない。
一つひとつ学んでこそ分かり、正しいと分かれば信じて生きていくのが世の理だろう。

 

摂理の教会に通う人たちの生活

さて、摂理の教会に通う人たちはどのように生活しているのだろうか?
摂理の教会には老若男女様々な人たちが通っている。
学校に通っている人たち、会社に通っている人たち、医者として活躍している人たち、研究に没頭する人たち、プロスポーツ選手もいる。
当然、教会内で仕事をしている人たちもいる。
個性通りに、多種多様な人たちがそれぞれに生活をし、日曜日になれば礼拝を捧げ、神様の御言葉を聞くために摂理の教会に通っている。
スポーツをしたり、芸術活動をしたり、奉仕活動などの地域貢献もそれぞれの生活の中で行なっている。

イザヤ書11章6~9節
おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

鄭明析牧師はこれらの動物は比喩だと教えてくださった。オオカミのような人、子羊のような人のことだと。
個性があり、様々な性格や考え方を持った人たちが主が来られたら一つになるという旧約の預言だが、摂理はまさにそのような個性溢れる人たちが集まっている。

摂理の教会に通う人たちは鄭明析牧師が伝えてくださる聖書の言葉・神様の御言葉を聞いて、その御言葉を自分の生活の中で活かしていく。
人は考えで生きていく」というが、どのような考えを持って生きていったらよいのか、その答えを御言葉を通して受けることができるから、御言葉をしたい求めるわけだ。

人は多かれ少なかれ“言葉”による影響を受けている。
「あの人の一言がなかったら今の自分はなかった…」「あの人の一言が今も自分の中に傷として残っている…」
過去を回想してこのような思いを抱いたことはないだろうか?
私自身もそういう経験がたくさんあるが、良くも悪くもその“言葉”が自分の人生に影響を及ぼしてきた。

自分の人生に影響を与えるその“言葉”が神様の御言葉、すなわち絶対的な真理であるならばどれほど良いだろうか。
自分の人生を決定付けていく“考え”をどこにかけて生きているのか、その“考え”は果たして正しいものなのか、点検する必要性は誰もが感じていると思う。

私は摂理の教会に通うようになって以来、自分の間違った考えに気づくことができたことを大きく思っている。
過去、「自分のことを分かってくれる人はこの世にはいない。どれだけ仲のいい友達でも、家族でも・・・」と考えて生きてきた…
自分のことを分かってくれないならばもう良いと開き直り、自分で全てを抱え込んで生きて行こうと決心しさえした…
人は多かれ少なかれ「なぜ私のことを分かってくれないのか」と他人に期待することがあると思うが、その期待の度が過ぎ、独りよがりな息苦しい考えに縛られて生きていた…

私は神様の御言葉を学びながら、特にキリストの生き様に触れたとき、その考えを転換することができた。

<ヘブル人への手紙2章18節>
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

神ではない人間が他の人間の全てを分かることは出来ない。
しかし、「キリストは人間として受けうる全ての苦痛を受けた」と鄭明析牧師が教えてくださったように、キリストは人でありながら全ての人の心を分かるようになり、人を救う権勢を得て生きられた。
そうして全人類を救う人として、すなわちキリストとしての使命を十字架にかけられて死ぬその直前まで全うされたその生き様は、私の人生観を覆すのには十分すぎた。
自分の苦痛を嘆くのではなく、その苦痛を通して人の心を分かってあげるキリストの生き様に挑戦しようと決心した時に私の考えは変わった。
「分かってもらえない」ことを嘆くよりも、「分かってあげられているのか?」と自分自身を省みるようになった。

<マルコによる福音書10章42~45節>
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

私に「仕える精神」を教えてくれたのは他でもなくキリストだ。
摂理には様々な御言葉があるが、特にキリストの生き様に触れたときに、人生観が変わったことを強調したい。

ヨハネによる福音書/ 13章 15節
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

 

「鄭明析牧師」とはどのような人物か?

「摂理」を語る上では欠かすことのできない「鄭明析牧師」という人は一体どういう人なのか、多くの人たちが疑問に抱いていると思う。
鄭明析牧師の公式サイトがあるので、是非とも閲覧していただきたい。

リンクサイト:鄭明析牧師 公式サイト

鄭明析牧師の生涯を見てみると人並外れた路程に驚きを隠せないだろう。
多くの人たちがあいつは狂ったやつだと軽蔑する中でもひたすら神様の願っていることをし続けてきた鄭明析牧師の生き様はイエス・キリストの生を彷彿させる。
聖書の言葉を実践することに加え、神様が創造なさった文化芸術の世界においても第一線で活躍される多彩な才に全知全能さが垣間見えるのではないだろうか?

<ヨハネによる福音書7章31節>
しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、
「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。

鄭明析牧師について、ああだこうだと様々なことを言うが、私は聖書のこの一節を回答としたい。
私は鄭明析牧師を直接見、また直接見ることが不可能な過去のことは歴史の記録を見聞きしたが、やはり、この一節同様の告白をするしかなかった。

 

まとめ

<使徒行伝5章34~39節>
ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。
そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。
そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、

<マタイによる福音書10章26節>
だから彼らを恐れるな。
おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

真実かどうかはいつか必ず露わになるものだ。
摂理のことを知らない人たちがカルト宗教だと言ったとしても、本物ならば必ず残る。
摂理が始まって以来、どのようなことがあったのか、今現在どうなのか、今後どうなるのか、それらを見れば明らかだだろう。

摂理はカルト宗教なのか?という問いについての答えは、
読者の皆さんに確かめていただきたいと思う。
摂理で鄭明析牧師の伝える御言葉を一度直接聞いて、実践すれば、正しいものなのか間違ったものなのか、
摂理が人々が考え想像するような「カルト宗教」なのか、必ず分かる、と私は心から信じている。

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