サッカー
「私は人生を学ぶために運動をする」
チョンミョンソク牧師は人々の想像をはるかに超える量の運動をなさる。
ある時はサッカー経験者も足がつって動けなくなるほどにサッカーをされたこともある。
チョンミョンソク牧師のサッカーをする姿を見て、ある人は「チョンミョンソク牧師は本当にサッカーが好きなんだなぁ」と言ったりもするのだが、あまりにもチョンミョンソク牧師のことを分かっていない質問だ。
膝が痛くなったとしても、テーピングをまいてでもやる。
誰がどうみても足を引きずっているのに、それでも走る、ゴールを決める。
狂うほどにサッカーが好きだったとしても、そこまでは絶対にできないと思うほどにだ。
なぜそこまでしてサッカーをされるのか?
その本当の真意はチョンミョンソク牧師のことを知れば知るほどに分かるのだが、サッカーを通してこのように人生を生きるのだ!と叫ばれているのだ!
文字通り命を懸けて。
「瞬間の時・機会を逃すな。」
ある時、チョンミョンソク牧師のところにボールが来たのだが、そのボールをダイレクトでシュートし、ゴールを決めた。
パスを受けてボールを持っていると敵がすぐに来てしまう。
ややもするとボールを奪われてしまう。
ダイレクトで打つのが一番速いとおっしゃりながらゴールを決めたわけだが、
これと同じく、「機会を掴むためには素早くやらないといけない、瞬間の機会を逃すな。」とコーチしてくださった。
「サッカーをしながら人生を学ぶことができる」ということは、私にとっては本当に衝撃だった。
ただ楽しいスポーツ、勝ち負けで一喜一憂するスポーツではなく、そこから自分の人生の学びを得ることができるのがキリスト教福音宣教会のスポーツの真骨頂だ。
「サッカーは神様に捧げる賛美だ」
チョンミョンソク牧師がサッカーを始められるようになったきっかけは健康のためだった。
朝の6時から8時まで毎日2時間、6カ月間運動を継続されたのだが、運動によって健康を完全に回復させることができた。
そうして健康が回復した後にも続けてサッカーをされていたが、チョンミョンソク牧師は「私が御言葉を伝えるために来たのにサッカーをあまりにも親しく行っているのではないか?」と神様に申し訳ない気持ちになった時、「サッカーは神様に捧げる賛美だ」と悟られたのだった。
いつもどんなときも、サッカーをするにしても、何をするにしても、チョンミョンソク牧師の心は神様に向かっている。
「ただひたすら神様」はチョンミョンソク牧師の哲学だ。
体験してみてこそ分かることだが、心が神様に向かい、ただサッカーをするのではなく神様に捧げる賛美としてサッカーをしてみると、これまでに味わったことのない心霊の喜びに満たされるようになる。
私がサッカーを3時間、4時間以上やっても
疲れて大変がっていたという言葉を聞いたことがあるか? ないだろう?
私はサッカーが好きで、そのようにしていたのではない。
あなたたちに見せてあげようと、そのようにしていたのではない。
三位を愛しているから、そのようにした。
ただそれが私の目的だった。
人々は私に、祈りに狂った、信仰を間違えているといって嘲笑(あざわら)った。
しかし私はやり続けた。
ひと時も、心が折れたことはなかった。
なぜか? 目的が正確だったから、そうだ。『正確な目的』より
平和サッカー
チョンミョンソク牧師は「サッカーをするとき、絶対にぶつかったり、ラフなプレーをしないことだ。平和なサッカー、仲睦まじくするサッカー、私のサッカーの趣旨と法だ。」とおっしゃり、必ずサッカーをする前に皆に話してあげるようにとコーチしてくださった。
また、「私は相手がをいつも私の恋人だと思ってプレーをした。自分にボールが来たとき、そのときだけ技術を発揮したらいい。相手が来る前にパスをし、紳士的なサッカー。」とサッカーをする時の心構えもコーチしてくださった。
これはチョンミョンソク牧師の理論を語っているのではなく、実際にサッカーを通して平和を実現しようと実践なさった実体を成す言葉だ。
「そのようにしてこそ疲れず、終わった後も互いに笑顔で終わり、互いに申し訳なくないし、気まずくない。」と付け加えてくださったのだが、本当にその通りだと認める。
そのようにしながらチョンミョンソク牧師はキリスト教福音宣教会のスポーツのサッカーで「平和」な世界を創出する。
マタイによる福音書5章9節
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。