「今、春休みは本当に何もすることがなく、夜12時くらいまでリビングでテレビを見てスマホをいじって過ごし、2時か3時くらいまで部屋で何かやっている。朝は11時くらいになってもまだ寝ている。」
このような生活が2週間ほど続いていると言います…
皆さんはこの話を聞いて何を考えますか?
私は青少年期に野球に打ち込んでいました。文字通り、朝から晩まで野球に没頭していました。
しかし、大学4年生の夏に現役を引退し、野球から離れると、昼夜が逆転し、生活リズムが大きく崩れた惨めな生活をしていました…
その時に、よく回想していました。「ああ、一生懸命野球をしていた時は良かったなぁ」と。
芸術が好きな人たちは肉も精神も霊も健康になる。
『天のことば 私のことば』p.18より
今私は指導者という立場でスポーツに関わっていますが、スポーツや文化・芸術、それらの活動が人々の「健康」に大きく寄与していることを強く感じています。
特に、青少年たちの健全な心身を育んでいく上では、なくてはならない存在がスポーツや文化・芸術だ!と私は思います。
(部活に所属していない彼らの人生を否定しているわけではなく、スポーツや文化・芸術の世界の門を叩いてほしい、ただただ、その一心です。)
スポーツは「する」のみならず、「見る」や「支える」という多様なかかわり方もあります。
運動が苦手という方には「見る」や「支える」という側からもスポーツを眺めてみてくださいね。
表題の通り、スポーツが担う役割は本当に大きく大きいと感じます。
スポーツや文化・芸術を通じて、青少年たちが肉も精神も霊も健康に成長していけますように…
The post スポーツが青少年期の子どもたちを守る?! first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>今週の御言葉ではこのような話が出た。
世界で金メダルをとった人たちも、自分の種目に精神と行動が狂って、数百回、数千回も繰り返し練習し、大会に出て最高の位置を手に入れ、最高の賞をもらったのです。
「狂う」とは韓国語の「미쳐서 하다」という訳だが、アスリートの指導者が頻繁に使っている。
そこに没頭して命を懸けて行なう人のことを傍から見ると狂ったと言えるだろう。
経験したことがある人は分かると思うが、数百回、数千回も繰り返し練習するという行為は正直狂わないとできない。
神様、聖霊、御子、イエス様を正しく分かって信じて行なったことも、それを研究し学び祈り、狂って行なったからです。最高に行なった行ないどおりにもらって生きるのです。一緒に行なわなければ、理解できず、誤解します。
チョンミョンソク牧師は聖書を数百回、数千回も繰り返し読み、山にこもって数百回、数千回も祈られた。
当然傍から見ると「狂った」となるだろう。
ゆえにたくさんの誤解を受けたわけだが、スポーツに狂うアスリートたちは理解ができるだろう。
その道、その分野、そのスポーツで最高の座につくためには狂って行なわなければ不可能だからだ。
信仰だけではなく、スポーツ選手や政治家や事業家、芸術家など、みんなそれに狂って行なって成功します。成功した人たち同士は通じ合います。
私もそれ相応の舞台で金メダルを獲得した経験があるが、自分自身が狂ったとは思っていない。
文字通り、命を懸けて行なったのだが、評価する周りの人々から見れば、おそらく「狂った」と表現するであろう。
結局、「あいつは狂った」と評価されるくらい行なわなければその分野の頂点に立つことは厳しいと思う。
スポーツ界でトップに立つアスリートたちの気概は人々の理解をはるかに超越した「狂」の世界に存在する。
スポーツのみならず、政治・経済、様々な文化・芸術、そして宗教に至るまで、誤解を恐れずに言うが、狂った人が成功すると信じてやまない。
イエス様の時も、イエス様が十字架で亡くなられても、弟子たちはイエス様に続けて狂って従いました。彼らは結局天国を建設し、永遠に生きるようになりました。
狂った人が成功します。
聖書でイエス様の時のことを詳しく読むことを願います。
*全ての引用文は2024/02/04の主日の御言葉から引用した。
私は初めてチョンミョンソク牧師とお会いしました。
当時、私は大学の運動部でトレーナーをしていたこともあり、一緒にサッカーをした後、チョンミョンソク牧師の身体のケアをさせて頂く機会がありました。
その際、身体をケアしながら衝撃を受けたことを覚えています。
この日、チョンミョンソク牧師は朝早くから御言葉を伝えられました。
その後、サッカーやバレー、テニスなどの運動をされ、さらには多くの人と面会もされながら本当に忙しくされていました。
私はごはんを食べたり、休憩したり、散策したりする時間があったのですが、チョンミョンソク牧師は休むことなく活動し続けていらっしゃって、
「体力が尽きはしないのだろうか」と、不思議に思いました。
夜には数百人の大学生たちに御言葉を伝えられました。
さらに、大学生たちと一緒にサッカーをしてくださいました。
私もGKとして出場して、チョンミョンソク牧師の姿を同じフィールド上で見ることができました。
チョンミョンソク牧師はループシュートやわずかな隙間に狙いを定めたシュートで10点以上を決める活躍をされました。
サッカーが終わったのは、なんと、24時を回った深夜のこと。
その後も、さらに御言葉を伝えてくださいました。
その時、私は大学の運動部のトレーナーとしての経験を活かして、チョンミョンソク牧師の身体をケアして差し上げたいと想いました。
その想いが天に通じたのか、実際に、チョンミョンソク牧師の大腿部、ふくらはぎのケアをすることになりました。
「これだけ一日中活動されているのだから、どれだけカチカチになっているのだろうか」と思って触ってみると、とても’しなやか’で柔軟性のある筋肉でした!
私は常日頃から多くの選手をケアする中で、全国大会で安定した成績を残す選手に共通することは「筋肉が’しなやか’だ」ということを感じていたのですが、チョンミョンソク牧師も同じようなトップアスリートの筋質だったことに強く衝撃を受けました!
休む暇なく1日中活動した後で、こんなことはありえるのだろうかと驚きを隠せませんでした!
天の身体となってこの地に愛と平和を成すチョンミョンソク牧師。
時間がない中でも皆と運動をされるチョンミョンソク牧師は、スポーツに人生を懸けて取り組んでいるアスリートと同等の筋肉質を兼ね備えた身体であるということを実際に身体をケアしたトレーナーの私がここに証したいと思います!
by.gosh
The post トレーナーの私がみたチョンミョンソク牧師の身体 first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>まず初めに、3つの法則を教えてくださった鄭明析牧師の言葉を引用したい。
目標を達成するには、
いくつかの法則がある。一番目は群れの法則で、
群れをなし多くの人々との
授受関係の中で
起こる力によって限界を越え、
目標に到達するようになる。二番目は見る法則で、
目標をいつも見つめるときに、
そこに上がることができる。三番目は、いつも考える法則だ。
脳の中で、心の中で、
いつも忘れないで
考えるべきである。
そうすると、
目標にいたることができる。
さて、目標を達成するための3つの法則とは、すなわち、①群れの法則、②見る法則、③いつも考える法則だ。
順に見ていこう。
鄭明析牧師は一番初めにこの法則をあげられた。
目標を達成するためには、一人で行なうのではなく、群れをなすことだと言った。
スポーツ選手たちは所属するチームの仲間たちと群れをなしながら目標に向かっていると思う。
仮に、チームの仲間がいなかったらどうだろうか?
互いに切磋琢磨する仲間(群れ)がいれば互いに励まし合いながら、互いに支え合いながら目標に向かうことができる。
もちろん、同じ目標を持つ仲間でなければならない。
時には目標に向かうことの妨げになる場合があるかもしれない。
志の高い仲間と共に切磋琢磨したいものである。

前提として、目標を見える化することが必須だ。
漠然とした目標よりも、具体的な目標を設定しなければならない。
自分が目標とするモノをすでに成し遂げた人がいるならば、ロールモデルとして見ることが一番効果的だろう。
プロ野球選手になることが自分の目標ならば、プロ野球選手を見ること、プロ野球の試合を見ることだ。
特にロールモデルとしてある選手を見ながら研究し、時には真似てみることも良いだろう。
人は忘却の生き物。
3つ目の法則にも繋がる部分だが、紙に書くなどして、自分の目標を見れば忘れない。
忘れたら死ぬという鄭明析牧師の有名な格言があるが、見ることで目標を死なせない努力をしなければならない。

ただ考えるのではなく、鄭明析牧師は「いつも」考えることだと言った。
目標を達成するためには非常に重要なポイントだ。
目標をいつも考えることで、その目標を達成するためにはどうすれば良いか考えるようになる。
今現在自分が目標を達成するために必要不可欠な行動をとっているのか確認することができるようになる。
時々、思い出すように目標を考えるだけでは目標を達成するには至らないだろう。
朝目を開けてから夜目を閉じるまで、いや、脳が活動する全ての時間、目標を考えればその目標を達成できないはずがないだろう。

以上、スポーツ選手にはぜひとも知ってもらいたい目標を達成するための3つの法則を紹介した。
必ず実践して、目標を達成することを願う。
磨きに磨かれた技術は崇高とも形容できるほどのものだが、残念なことに、それらの技術を非人道的に使う者たちがいる…
野球、わざとデッドボールを投げる…
サッカー、スライディングで足をかける…
バレーボール、わざと指をケガするようにスパイクを打つ…
これらの例はごく一部…
外からは競技中の事故に見えるがゆえに、本当に悪質だ…
アスリートたちが備えるべき、いや、人としての兼ね備えるべきものが欠如している現状を考えると非常に心が痛い…
スポーツをする者がスポーツの価値を下げるようなことは絶対にしてはいけない。
特にアスリートと呼ばれる者たちにはスポーツの価値を高める責任があるにも関わらず非人道的行為を行なっているならば言葉が出て来ない…
アスリートとしての矜持がないのだろうかと正直疑問に思う…
その裏には指導者の指示がある場合もある…
指導者は正しい方向へと導く者たちではないのだろうか…
スポーツが戦争と化す…
そんな日があっては絶対にいけない。
先生はスポーツを通して平和を成してこられた。
相手を恋人だと思ってプレーされた。
スポーツを楽しむ全ての人たちがこのような考えでプレーするならばどれほど良いだろうか…
「磨き上げた技術をどのように使うのか」と題して書いたが、スポーツ界にはびこるこれらの問題が必ず根絶されることを祈る。
The post 磨き上げた技術をどのように使うのか first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>まずは言葉の違い。
大抵のアスリートは通訳を通して意思疎通をする。
意思疎通ができればそれで良いのでは?と思うかもしれない。
しかし、自分自身がその国の言葉を話せないとスポーツ以外の生活面でストレスを受ける。
例えば、簡単な買い物においても通訳者が同行するならば、どれほど不便だろうか?
(もちろん通訳者との信頼関係が深く築けていれば気にならない部分なのだが、それでもプライベートを自分の思いのままに過ごせないことに少なからずストレスを感じると思う。)
もちろん、海外での活動年数を重ねたアスリートにとっては自分自身でもその国の言葉を話せるようになり、そのようなストレスもなくなっていく。
最初の1年ほどで適応できるかどうかが決まると思う。
次は食事の違い。
食事が身体に合わない場合がある。
海外に行って体重を落とす場合もあれば、逆に増えてしまう場合もある。
競技の特性にもよるが、自身の身体の変化は競技パフォーマンスに大きな影響を及ぼしてくる。
私は食事の面で大きく苦労することはなかった。
食事によって、大きく体調を崩したり、体重の増減を経験することはなかった。
食事が合わない人たちは祖国から食材や調味料を持ちこんで料理する。
また、国によっては日本料理店や日本から輸入した食品を販売する卸売り店があるため、そういう所を利用しながら食事に神経を使っている。
次は文化・風習の違い。
同じスポーツでもその国特有の文化・風習が存在する。
野球でいえば、大差がついたときにバントや盗塁をすることは失礼にあたる場合がある。
最後まで最善を尽くさないことが逆に失礼にあたる場合もある。
その国の文化・風習を理解していなければ、そのプレーによってのけ者扱いされることもある。
海外での活躍が認められるには、その国特有の文化・風習を分かってプレーすることも求められてくる。
次は家族の生活。
未婚のアスリートであれば自分のことだけを気にし、競技に集中すればよい。
しかし、家族がいるとなれば自分のことだけを気にするわけにはいかない。
私の奥さんはひとりで娘の面倒をみて家事をこなすことが多い。
母国ではなく異国の地で育児をこなすことは容易ではない。
家族や友達が近くにいて、助けを受けることもできないからだ。
また、非常時の対応も頭の片隅に入れておかなければならない。
「そんなことはほとんどない」と安易に思わず、備えるべきことはあらかじめ備えておかなければならない。
例えば今回のコロナ。
今日本に易しく帰国できない。
飛行機は運航便が減っている。帰国しても隔離生活14日間。
大きな怪我や病気をした時の対応も易しくはない。
このような非常時の対応についても考えておいてこそ、スポーツに最大限集中することができる環境を整えることができるのだ。
ではなぜこのような困苦の中でも海外でプレーすることを願い、今もなお海外で活動するのだろうか?
それは極的な短所があるけれども、それらを果敢に克服して、極的な長所を得て生きることができるからだ!
易しく言うならば、苦労する分、得られるものが大きいということだ!
海外での活躍するアスリートの話を教訓にして、各自の場で一層困苦に立ち向かって活躍する皆さんになることを願う。
The post 海外で活躍するアスリートたち first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>その日、私は明け方から勝負服であるユニフォームに着替え、先生の故郷・月明洞(ウォルミョンドン)に向かった。
まだ日が昇る前に月明洞に到着した。
先生はジョギングをするために家から出て来られた。
ジョギングをしながら様々に運動場の周辺を省み始められた。
1周を走り終えられたところで運動場の状態を見て「これでは足首などをけがしてしまう」とおっしゃった。
そこから運動場を平らにする作業が始まった。
私は作業をしながら先生の意図を最大限くみ取ろうと努力した。
正直、気を付けながら走ればそれほど大怪我に至るような状態ではないのではないかと思った。
しかし、私の考えは実に浅はかなものだった。
<ルカによる福音書9章25節>
人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
先生は天下を与えても代えることのできない貴重な身体・命に害が及ぶことに対しては徹底的に対処なさる。
さらに先生は野球をすることまで見通され、運動場を平らにする作業を開始したことを悟った。
野球をする場合、グランド整備に多くの神経を使う。
少しの凹凸(おうとつ)がイレギュラーバウンドを生むからだ。
さらには小さな石が一つが致命的なエラーを引き起こす可能性もある。
小さな石に当たったボールは不規則に変化し、指や顔に当たる…
そう悟ってからは死にもの狂いで運動場を平らにした。
その日、先生はとても忙しくされていた。
運動場を平らにする作業は私たちに任されて、先生は他の作業に取り掛かられた。
午前10時半を回ったころ、私たちはようやく野球をするための準備に取り掛かった。
ラインを引き、簡易ネットを設置した。
散水もしっかりして、いよいよ準備が整った。
その日の月明洞は真夏のような強い日射しが照りつけていた。
簡単な食事を済ませた直後、
先生は「野球を始めなさい」とおっしゃってくださった。
いよいよその時が来たかと思い、私たちは急いでキャッチボールを始めた。
先生は遠くから望遠鏡でご覧になりながら「こんなに暑いのによくやるなー」と労いの言葉をかけてくださった。
その日、先生は本当に忙しかった。
野球をご覧になってはくださったものの、共に野球をする時間はなかった…
先生は運動場に残っている岩すべてを神様の構想の通りに置く作業に没頭された…
日は西の山に沈み、ナイター照明がつけられたが、それでも作業の手が止まることはなかった…
私たちは野球を中断し、作業を共に手伝った…
作業が終わったのはなんと夜の9時半だった…
先生は明け方から働いて疲労困憊…のはず…
だが、先生は、その時間から野球バットを握った。
黄金色の金属バットを手にすると、ティースタンドを使ってロングティーを始められた。
私たちは急いで守備についた。
いつも練習しているかのごとく、非常にテンポよく打つ先生の姿に瞬間守備することを忘れてしまった。
そんな私を見てか「いつもボールが自分のところに来ると思っていなさい」と守備についてコーチをしてくださった。
私はサードの位置で守っていたのだが、ボールが全く飛んで来ない…
よくよく先生のスイングを観察してみると、きれいなインサイドアウトのスイングだった!
打球はほぼセンターへ飛んでいた!!
野球経験はほとんどない先生…
しかし、右手でこねることなく打っていたことに驚きを隠せなかった。
先生は70球ほどスイングされた。
打ちながら「若干アッパースイング気味で打つと良い」とコーチもしてくださった。
初めて先生と共に野球をしたのに、
まるでいつも指導を仰いでいる監督よりももっと近い感覚を受けた…
先生は私にも打ってみなさいとおっしゃってくださった。
ガチガチに力が入ってしまい、最初の3球は全く飛ばなかった。
最後の1球、私は心を空けて「선생님 사랑합니다」と叫びながらフルスイングした。
すると、裏山の前からアプ山の方まで自分でも驚くほどに飛距離が出た!
その瞬間、「愛は神様に届く」と悟った。
<コリント人への第一の手紙16章14節>
いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
そのあと、先生はピッチングを披露してくださった。
特注の白色のグローブを先生にお渡ししたが、先生の手は作業で腫れあがり、グローブに入らなかった…
(先生は作業によって手に力も入らず、肩も痛かった状態だったということを後日知った…)
先生はボールを握り、10メートルほど先のキャッチャーめがけて10球ほど投げられた。
驚くほどコントロールが良かった。
さらに先生のフォームはシンプルで、左手は相手に真っ直ぐ伸ばし、右手は耳のすぐ横に、右肘は肩のラインまで上げた状態から一気に前に振り下ろすフォームだった。
野球を全くしたことのない初心者に対してこのようなフォームで投げるようにコーチするのだが、不思議にも先生はそのフォームで投げていた。
その後、私がピッチングする姿を先生は見てくださった。
現役時代の試合でも味わったことのないほどの観客の中でのピッチングだった。
このピッチングは、私にとって深い意味があった…
現役時代、私はチームの中でバッティングピッチャーを務めることが多かった。
誰に言われたわけではない。
度が過ぎるほどにチームファースト、自分を犠牲にしてチームに尽くしてきた。
<マタイによる福音書6章3~4節>
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
そんな過去の全てを神様はご覧になっていて、この瞬間に報いてくださったのだったと悟った。
先生が私の過去をご存じでそのようにスポットライトを当てるようにしてくださるだろうか?
神様がすべてをご存じで先生を通して演出してくださったことに本当に感謝した。
そのあとさらに先生はサッカーも共にしてくださった…
そして御言葉も…
先生と共にした時間は本当に天国のようだった。
こんなにも喜んで野球をしたのは野球を始めて以来初めてだった。
全てが終わった時には日付が変わっていた…
最後にサインをくださったのだが、その日付が日をまたいで行われたという証となっている。
(そして、先生は次の日の明け方に壇上で御言葉を伝えられている…)
なぜ先生はこんなにも夜遅くまで野球を共にしてくださったのだろうか?
先生は野球が好きだからだろうか?
いくら野球が好きな人でも明け方から夜遅くまで働いた後に野球をしようなどと絶対に考えないと思う…
先生は神様の身体になって、神様が愛するように私たちのことを愛してくださるから、
野球も含めてこのような全てのことを行なってくださった。
先生と共にし、先生の行ないを深く見るならば、先生を通して神様が生きて働かれていることが見える。
2000年前にイエス様の行なわれることを見てその中に神様を見たように。
<ヨハネによる福音書14章8~11節>
ピリポはイエスに言った、
「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
イエスは彼に言われた、
「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのである。
どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。
わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。
父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。
もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
先生はおっしゃったことを必ず成し遂げる。
2019年の夏、ある高校球児が制球難に苦しんでいた。
先生は「意識するな」と彼にアドバイスを送って制球難を抜け出すことができるようにコーチをしてくださった。
その後、先生は、私に「かぶっている野球帽子を脱ぎなさい」とおっしゃった。
そして野球帽子でバスケットのゴールのようにしてボールポケットを作った。
先生は動かすなとおっしゃりながら、ボールを手に取り、野球帽子をめがけて投げた。
先生と私との距離は6~7mくらいあり、先生の周りにはたくさんの群衆が押し寄せていた。
そんな中で先生は一度で完璧にボールを帽子の中に投げ入れたのだった!
(私は全く手を動かしていない)
一瞬、何が起こったのかよく分からなかった。
先生は「意識するな」とおっしゃったことを目の前で体現されたのだった!
普通の人間ならば多くの群衆の中で意識せずに何かを一度でやり遂げることは極めて難しい。
一芸をやり遂げるプロたちは毎日毎日そのことだけを何時間も練習してようやく成功させるが、
先生は人並外れた感覚でいとも簡単にやり遂げてしまった。
私はこれを見て、「神を示してほしい」と言うことはできなくなった。
(LDK)
The post 鄭明析(チョンミョンソク)牧師との野球 vol.1 first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>先生と共にプレーする中で、先生が速く、正確で、いつも最善•最高の選択をしているということを知ることができた。
また、神様と共にプレーしている姿を生で観て体感することができた。
このような経験ができたことにはこの上ない感謝の気持ちでいっぱいである。
さて、私は2018年にサッカークラブを設立し、そのクラブをプロ化するという夢を追いかけている。
そのための様々な事業の一つとして、シニアサッカーに着目した。
日本には40歳以上の人が参加するシニアリーグというものが存在する。
O-60(60歳以上)というカテゴリーの大会もある。
今後、少子高齢化が一層進む中、高齢者の方々がサッカーをしたいと思っているのか、ニーズはあるのかなど、チームメイトや自分の親に聞いてみた。
返ってきた答えは、、、、
サッカーはしんどすぎる。
みんなしんどいからゴルフとか、ゲートボールとかやるようになる。
出来てもせめてテニスとかやろ。
というものだった、、、
高齢者にとって、ほぼ止まらずに110m×70mの広大なピッチをスプリント、ジャンプ、ボディコンタクト、切り返しを繰り返しながら動き続けることは至難の業だ。
高強度のインテンシティを要するサッカーはシニアにとって非常に辛い。
O-60の大会では20分ハーフの試合、交代は自由とされており、体力面で考慮されたルールを採用している。
私の知る先生は人々の救いのため、神様の為に、朝3時から24時まで聴衆の前で神様の体として働き続ける。
どんなときも、御言葉が潰えたことはない。
むしろ読みきれない、聞ききれないほどに書き伝えている。
ひとたびサッカーが始まれば、3時間でも5時間でもピッチに立ち続ける。
73歳とは思えぬスピードで駆けあがり何度も無酸素運動状態のドリブルを繰り返し、ゴールを決め続ける。
以前韓国の女子A代表の選手とバウンドしたボールを30メートル離れた地点からシュートする練習をされていた。
その時、GKは20人ほどいた。
前後列に分かれていたので実質後ろの10人が守るような状況ではあったが、女子A代表の選手はゴールを決めることができなかった。
30メートル離れた地点からシュートを打つ際には、強く打たなければならないため、足の甲で打つことが基本となる。
浮いているボールに対して足の甲のアーチを下から上に擦り上げるようにして打つため、ボールにはドライブ回転がかかるようになる。
ドライブ回転は前に出ているGKに対して非常に有効ではあるが、GKが10人もいるとなればゴールの可能性は当然低くなる。
また、ドライブ回転以外のシュートだと弱いシュートになってしまうため、もっとゴールが難しくなってしまう。
そもそも、GKが20人ほどいる状況下でゴールすること自体が不可能に感じる練習だった…
そのような状況の中で先生はどのようにシュートなさったのか?
先生は足の甲の中心でボールの中心を正確に捉え力を入れず蹴っていた。
先生が蹴り上げたボールはゴールよりも10メートル近く高く上がり、綺麗な放物線を描きながらゴールすれすれに落ちて行く。
先生がなぜそのように蹴るのか最初は全く分からなかった。
しかし、ボールの軌道をよく見てみるとボールは無回転だった。
世界的なフリーキックの名手は無回転のボールを蹴ることが多い。
無回転のボールは空気抵抗によって予測不能な動きをするため、無回転のボールを蹴ることはGK泣かせだと言われている。
実際に無回転のボールを蹴るためには強靭な腸腰筋とシャープな足の振りが必要となる。
先生は自分の筋力に合った蹴り方を研究され、何千何万回も反復練習を重ねながら空気抵抗を上手く利用する技術を会得し、バウンドボールを無回転に変えていた。
ゴール前のGK20人は先生の無回転シュートの軌道を読むことができず、キャッチしようと試みるが何度もボールをこぼしていた。
そして、ついにGKの手をかすめてゴールが決まった。
ここで終わりではない。
感覚を掴んだ先生は、その後も同じ軌道とコースに何度もボールを蹴り上げゴールを量産した。
後日聞いた話だが、20人のGKのうちの1人はGKを専門的にやっていた人だったのだが、彼が「日光で眩しくて、蹴り上げられるともっと止めるのが難しくなった」と話していたそうだ。
私はサッカーを20年以上してきた。
高校世代での日本代表、海外でプロも経験した。
しかし、バウンドしたボールを無回転にさせる技術は一度も見たことはなかった。
理解と想像の範疇を遥かに越える世界だった。
先生の何がすごいのか、はっきりと分かった。
以前、先生は「聖霊といつも対話しながらサッカーをしている。」と話されていたが、その意味がようやく分かった。
先生ご自身の肉体は73歳にして異常なほど強靭だ。
ここまで体を管理できたのは、聖霊と対話しながら、聖霊のコーチを受けたからだと納得がいく。
もちろん、現役のサッカー選手よりキレがあるわけではない。
先生も人間であるがゆえ、肉体の衰えを遅くすることはできても止めることはできない。
聖霊と対話しているという本当の意味はシュート練習の中に全て詰まっていた。
シュート練習の中で初めて、サッカーを通してどのように先生から学べばよいのか理解することができた。
自分の肉体の強度、GKの人数、ゴールからの距離、日光、ボールを蹴り上げる高さ、空気抵抗が生まれる蹴り方、ボールがゴールへ向かう角度、それら全ての要素を加味して最善の方法を選択してプレーすることによって不可能を可能にしているのだと分かった。
聖霊と対話しながら無回転シュートでGK20人の壁を突き破るという不可能を可能にしたように、そのように歴史も不可能と思えるようなことを何度も可能にしてきたのが先生なのだと!!
先生のシュートはそれほど強烈なシュートではないため、サッカーの専門家ではない人が見ると、驚かないことだろう。
それと同じく、自分がその分野について無知ならば、先生の行ないの偉大さに気づくことはできないだろう。
私はたまたまサッカーの専門家として先生の偉業•御業を見ることができて本当に幸運だった。
先生のサッカーは聖霊と対話しながらその環境•状況の中で最善•最高のプレーをされている。
だから主と近くしないといけないし、主から学ばないといけないし、自分の考えを下ろして主についていかないといけない、といつも自分に言い聞かせている。
(いっちー)
The post 鄭明析(チョンミョンソク)牧師とのサッカー vol.1 first appeared on キリスト教福音宣教会のスポーツ.]]>スポーツに夢中になっている人たちは、
それぞれの目標に向かって日々汗を流しているだろう。
私もその一員。
コーチという立場で選手と共に目標に向かって日々汗を流している。
私の目標は「チームの勝利」と「選手の技術向上・人格形成の手助け」。
夢中になれば時間が過ぎることを忘れる…
ウォーミングアップ、キャッチボール、ノック、バッティング、シートバッティングと一連の練習メニューをこなせばすぐに日は西の山に傾いている…
彫刻をする人たちが、作業を終えるまで作業服を脱がず、食事もその場で適当に食べて、終わる時まで執念を燃やす姿を見たことがあります。彫刻をすることに夢中になり没頭します。
「隣で立ったまま見物するだけでも全身が痛くなるぐらいなのに、どうやってあそこまで作業に夢中になれるだろう?」と驚くしかありませんでした。
ある人は作品一つを完成するまでに10年あるいは20年はかかると言います。自分の精神を、見える世界に必ず体現しようという執念です。作家は死んでも作品は永遠に残るから、没頭して作品を作るのです。作品の名前も残します。
焼き物の作品を作る人たちは、一生の間、多ければ二つ、あるいは一つの作品だけを残していきます。そして最高の作品以外のものはすべて割ってしまいます。それでこそ最高の作品を貴重に思うからです。そうやって一生を投資します。このように勤勉に、熱心に行います。人生が老いてしまうまでやります。
詩を書く人たちは、詩一篇が完成する時まで、他の何も見ずにそのことにだけ没頭します。本を書く人たち、研究する人たち、学者たちは皆、黒い髪から白髪が出てくる時まで机を離れません。
農夫たちも、泥の中で、家に帰ることは少しも考えずに働きます。おなかがすいて痛くなってきたら、ようやく一口食べます。そして春に家を出て秋に帰ってきたいという話をします。理解できないでしょう?農作業をしたことがなくても、自分の仕事に執念を持ってやったことのある人はおそらく理解できると思います。
(朝食をとりながらブログを書いているのだが、ブログを書くことに夢中になり、朝食を残したままだったことに今気づいた…)
何かに執念を持ってやっている人は本当に多いと思う。
だからこそ、この世の中が回っていることをみな認めるだろう。
引用文のように鄭明析牧師がおっしゃることは、ただ物事を俯瞰する目を持って言うことではない。
鄭明析牧師自身が、作詞作曲されること、御言葉を研究すること、祈ること、スポーツで神様に栄光を帰すこと、様々なことに執念を持って行なわれているからこそ、このような同じ観で物事を見ることができるからだ!
さらにこの後に続く鄭明析牧師の言葉が、現代を忙しく過ごす我々の胸に深く突き刺さる。
このように熱心に行って生きてはいますが、残念なことに一つできていないことがあります。すなわち「自分を素敵に価値ある存在につくること」、このことについては無関心に生きています。芸術作品、学問の作品を作ることは知っているし、お金を稼ぐことも知っているけれども、「自分」という作品は作ろうとしないということです。「自分」という人生の作品をつくることは考えられずに生きています。物質の作品には度が過ぎるほど関心を持っていながら、自分の霊魂の作品、人生の作品には関心がありません。
そう、物質の作品を作り上げることには度が過ぎるほどに熱心な人は多いけれども、人生において一番重要な「自分」をつくるということに関して熱心な人はごくわずかだ…
今の自分自身を省みて「人生の傑作品」だと言えるだろうか?
あるいは今現在傑作品とは言えなくても自分の人生という作品にどれくらい手をかけているだろうか?
さらに鄭明析牧師は人生の問題・限界についてこう話される。
自分をつくらないでいるから、人生の困苦を味わい、人生の問題にぶつかるのです。財閥家は財閥の限界に、政治家は政治の限界に、芸術家は芸術の限界に、哲学家は哲学の限界にぶつかって虚しさに陥り、虚無に襲われるようになるということです。
野球の練習に夢中になって一日を終えて、選手たちがみな帰途についた後、不図虚無に襲われることがある。
「こうして一日が終わり、一カ月が終わり、一年が終わり…一生が終わっていくのか…」と…
自分をつくってこそ、そのような虚無を感じません。この世で作った作品は、どんなものも天の国に持っていくことはできません。ただ世の中に展示しておくだけです。人々は「わあ!あの作品、素敵だ。有名だ」と言うかもしれませんが、神様が、人の作った作品を、神様が作った人間よりも大きく見ると思いますか?
「自分をつくってこそ虚無を感じない。」
このヒトコトの御言葉が虚無に襲われる多くの人たちを救う。
私もこの言葉によって救いを得たひとりだ。
パウロは、メシヤが現れた時、「わあ、作品だ!」と言って、その前に差し出せるくらいに、染みも瑕(きず)もなく自分をつくらないといけないと話しました。
鄭明析牧師の言葉はいつも聖書が根拠だ。
自分をつくるということに関しても、パウロ先生が言ったように、自分を瑕なくつくることだと教えてくださった。
約2千年前も、今も、人間が向かうべき方向は同じだということを知らなければならない。
最近、チームの中で問題になっていることがある。
それは、他人をけなし、指摘し、互いに言い争うということだ。
イエス様は自分をつくられた方です。人の目にちりがあったとしてもそのことは気にしないで、むしろ自分の目にある梁を早く取りなさいとおっしゃいました。自分をつくることに専念すべきであって、人の目にあるちりのせいにしてはいけないということです。このように話されたのを見ると、イエス様もそれだけ自分をつくられたということが分かります。
何も私のチーム内だけの話ではないと思う。
陰でコソコソと「あの人はOOだ」とか、「あの人はXXだ」とか言う人たちは残念ながら多く多い…
他人に関心を持つことは悪いことではないと思うが、
そのザマをあれこれという必要はないし、自分に目を向けるならばそのようなヒマは誰にもないのではないだろうか…
「人はつくり方次第だ」
この言葉に大きく感銘を受けて、その時からもっと自分をつくりました。御言葉で、真理で自分自身をつくりました。御言葉ののこぎりで切って整えました。自分をつくることは、山奥で発見した金を自分だけが分かって掘り出しているかのように楽しいです。最終的に作品につくったら、嬉しくてたまりません。
他人の人生にああだこうだと口出しをするのではなく、自分をつくることに精を出すこと。
他人の上げ足を取り、他人の価値を下げることによって自分の人生の価値を相対的に上げようとするような愚かな行為から抜け出さなければならない。
鄭明析牧師がおっしゃるように、御言葉で、真理で自分自身をつくることに専念することだ。
からし種はとても小さいけれど、大きくなったら多くの鳥たちが宿ります。自分を完成させれば、多くの人々が宿って感銘、感化、感動を受けます。
最初から完成しているものがどこにありますか?今からでも遅くないからつくればいいです。あちらに行ってもよく使われ、こちらに行ってもよく使われ、神様にも用いられるように、自分が自分をつくるのです。
自分の性格、行動、思考、このようなものをつくるのです。学校は学問を教える場所であって、人をつくることはできません。偉大な作家がいてこそ立派な作品が生まれるように、人は、偉大な人に会ってこそつくられます。神様の御言葉でつくるのです。聞いてばかりいないで、実践しながらどんどん自分をつくるのです。
引用:『よき師、よき教え』鄭明析
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