スポーツ界でトップに立つアスリートたちの気概
スポーツ界でトップに立つアスリートたちは、他の選手たちと何が違うのだろうか?
今日のタイトルのように、その気概が違うと考える。
今週の御言葉ではこのような話が出た。
世界で金メダルをとった人たちも、自分の種目に精神と行動が狂って、数百回、数千回も繰り返し練習し、大会に出て最高の位置を手に入れ、最高の賞をもらったのです。
「狂う」とは韓国語の「미쳐서 하다」という訳だが、アスリートの指導者が頻繁に使っている。
そこに没頭して命を懸けて行なう人のことを傍から見ると狂ったと言えるだろう。
経験したことがある人は分かると思うが、数百回、数千回も繰り返し練習するという行為は正直狂わないとできない。
神様、聖霊、御子、イエス様を正しく分かって信じて行なったことも、それを研究し学び祈り、狂って行なったからです。最高に行なった行ないどおりにもらって生きるのです。一緒に行なわなければ、理解できず、誤解します。
チョンミョンソク牧師は聖書を数百回、数千回も繰り返し読み、山にこもって数百回、数千回も祈られた。
当然傍から見ると「狂った」となるだろう。
ゆえにたくさんの誤解を受けたわけだが、スポーツに狂うアスリートたちは理解ができるだろう。
その道、その分野、そのスポーツで最高の座につくためには狂って行なわなければ不可能だからだ。
信仰だけではなく、スポーツ選手や政治家や事業家、芸術家など、みんなそれに狂って行なって成功します。成功した人たち同士は通じ合います。
私もそれ相応の舞台で金メダルを獲得した経験があるが、自分自身が狂ったとは思っていない。
文字通り、命を懸けて行なったのだが、評価する周りの人々から見れば、おそらく「狂った」と表現するであろう。
結局、「あいつは狂った」と評価されるくらい行なわなければその分野の頂点に立つことは厳しいと思う。
スポーツ界でトップに立つアスリートたちの気概は人々の理解をはるかに超越した「狂」の世界に存在する。
スポーツのみならず、政治・経済、様々な文化・芸術、そして宗教に至るまで、誤解を恐れずに言うが、狂った人が成功すると信じてやまない。
イエス様の時も、イエス様が十字架で亡くなられても、弟子たちはイエス様に続けて狂って従いました。彼らは結局天国を建設し、永遠に生きるようになりました。
狂った人が成功します。
聖書でイエス様の時のことを詳しく読むことを願います。
*全ての引用文は2024/02/04の主日の御言葉から引用した。