野球
人はつくり方次第だ~一生一作、自分という作品を傑作品に作ることだ~

人はつくり方次第だ~一生一作、自分という作品を傑作品に作ることだ~

Pocket

みなさんは、今現在、何かに夢中になっているだろうか?

スポーツに夢中になっている人たちは、
それぞれの目標に向かって日々汗を流しているだろう。

私もその一員。
コーチという立場で選手と共に目標に向かって日々汗を流している。
私の目標は「チームの勝利」と「選手の技術向上・人格形成の手助け」。

夢中になれば時間が過ぎることを忘れる…
ウォーミングアップ、キャッチボール、ノック、バッティング、シートバッティングと一連の練習メニューをこなせばすぐに日は西の山に傾いている…

彫刻をする人たちが、作業を終えるまで作業服を脱がず、食事もその場で適当に食べて、終わる時まで執念を燃やす姿を見たことがあります。彫刻をすることに夢中になり没頭します。

「隣で立ったまま見物するだけでも全身が痛くなるぐらいなのに、どうやってあそこまで作業に夢中になれるだろう?」と驚くしかありませんでした。

ある人は作品一つを完成するまでに10年あるいは20年はかかると言います。自分の精神を、見える世界に必ず体現しようという執念です。作家は死んでも作品は永遠に残るから、没頭して作品を作るのです。作品の名前も残します。

焼き物の作品を作る人たちは、一生の間、多ければ二つ、あるいは一つの作品だけを残していきます。そして最高の作品以外のものはすべて割ってしまいます。それでこそ最高の作品を貴重に思うからです。そうやって一生を投資します。このように勤勉に、熱心に行います。人生が老いてしまうまでやります。

詩を書く人たちは、詩一篇が完成する時まで、他の何も見ずにそのことにだけ没頭します。本を書く人たち、研究する人たち、学者たちは皆、黒い髪から白髪が出てくる時まで机を離れません。

農夫たちも、泥の中で、家に帰ることは少しも考えずに働きます。おなかがすいて痛くなってきたら、ようやく一口食べます。そして春に家を出て秋に帰ってきたいという話をします。理解できないでしょう?農作業をしたことがなくても、自分の仕事に執念を持ってやったことのある人はおそらく理解できると思います。

(朝食をとりながらブログを書いているのだが、ブログを書くことに夢中になり、朝食を残したままだったことに今気づいた…)

何かに執念を持ってやっている人は本当に多いと思う。
だからこそ、この世の中が回っていることをみな認めるだろう。

引用文のように鄭明析牧師がおっしゃることは、ただ物事を俯瞰する目を持って言うことではない。
鄭明析牧師自身が、作詞作曲されること、御言葉を研究すること、祈ること、スポーツで神様に栄光を帰すこと、様々なことに執念を持って行なわれているからこそ、このような同じ観で物事を見ることができるからだ!

さらにこの後に続く鄭明析牧師の言葉が、現代を忙しく過ごす我々の胸に深く突き刺さる。

このように熱心に行って生きてはいますが、残念なことに一つできていないことがあります。すなわち「自分を素敵に価値ある存在につくること」、このことについては無関心に生きています。芸術作品、学問の作品を作ることは知っているし、お金を稼ぐことも知っているけれども、「自分」という作品は作ろうとしないということです。「自分」という人生の作品をつくることは考えられずに生きています。物質の作品には度が過ぎるほど関心を持っていながら、自分の霊魂の作品、人生の作品には関心がありません。

そう、物質の作品を作り上げることには度が過ぎるほどに熱心な人は多いけれども、人生において一番重要な「自分」をつくるということに関して熱心な人はごくわずかだ…

今の自分自身を省みて「人生の傑作品」だと言えるだろうか?
あるいは今現在傑作品とは言えなくても自分の人生という作品にどれくらい手をかけているだろうか?

 

さらに鄭明析牧師は人生の問題・限界についてこう話される。

自分をつくらないでいるから、人生の困苦を味わい、人生の問題にぶつかるのです。財閥家は財閥の限界に、政治家は政治の限界に、芸術家は芸術の限界に、哲学家は哲学の限界にぶつかって虚しさに陥り、虚無に襲われるようになるということです。

野球の練習に夢中になって一日を終えて、選手たちがみな帰途についた後、不図虚無に襲われることがある。
「こうして一日が終わり、一カ月が終わり、一年が終わり…一生が終わっていくのか…」と…

自分をつくってこそ、そのような虚無を感じません。この世で作った作品は、どんなものも天の国に持っていくことはできません。ただ世の中に展示しておくだけです。人々は「わあ!あの作品、素敵だ。有名だ」と言うかもしれませんが、神様が、人の作った作品を、神様が作った人間よりも大きく見ると思いますか?

「自分をつくってこそ虚無を感じない。」
このヒトコトの御言葉が虚無に襲われる多くの人たちを救う。
私もこの言葉によって救いを得たひとりだ。

パウロは、メシヤが現れた時、「わあ、作品だ!」と言って、その前に差し出せるくらいに、染みも瑕(きず)もなく自分をつくらないといけないと話しました。

鄭明析牧師の言葉はいつも聖書が根拠だ。
自分をつくるということに関しても、パウロ先生が言ったように、自分を瑕なくつくることだと教えてくださった。
約2千年前も、今も、人間が向かうべき方向は同じだということを知らなければならない。

 

最近、チームの中で問題になっていることがある。
それは、他人をけなし、指摘し、互いに言い争うということだ。

イエス様は自分をつくられた方です。人の目にちりがあったとしてもそのことは気にしないで、むしろ自分の目にある梁を早く取りなさいとおっしゃいました。自分をつくることに専念すべきであって、人の目にあるちりのせいにしてはいけないということです。このように話されたのを見ると、イエス様もそれだけ自分をつくられたということが分かります。

何も私のチーム内だけの話ではないと思う。
陰でコソコソと「あの人はOOだ」とか、「あの人はXXだ」とか言う人たちは残念ながら多く多い…

他人に関心を持つことは悪いことではないと思うが、
そのザマをあれこれという必要はないし、自分に目を向けるならばそのようなヒマは誰にもないのではないだろうか…

「人はつくり方次第だ」

この言葉に大きく感銘を受けて、その時からもっと自分をつくりました。御言葉で、真理で自分自身をつくりました。御言葉ののこぎりで切って整えました。自分をつくることは、山奥で発見した金を自分だけが分かって掘り出しているかのように楽しいです。最終的に作品につくったら、嬉しくてたまりません。

他人の人生にああだこうだと口出しをするのではなく、自分をつくることに精を出すこと。
他人の上げ足を取り、他人の価値を下げることによって自分の人生の価値を相対的に上げようとするような愚かな行為から抜け出さなければならない。
鄭明析牧師がおっしゃるように、御言葉で、真理で自分自身をつくることに専念することだ。

からし種はとても小さいけれど、大きくなったら多くの鳥たちが宿ります。自分を完成させれば、多くの人々が宿って感銘、感化、感動を受けます。

最初から完成しているものがどこにありますか?今からでも遅くないからつくればいいです。あちらに行ってもよく使われ、こちらに行ってもよく使われ、神様にも用いられるように、自分が自分をつくるのです。

自分の性格、行動、思考、このようなものをつくるのです。学校は学問を教える場所であって、人をつくることはできません。偉大な作家がいてこそ立派な作品が生まれるように、人は、偉大な人に会ってこそつくられます。神様の御言葉でつくるのです。聞いてばかりいないで、実践しながらどんどん自分をつくるのです。

引用:『よき師、よき教え』鄭明析

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA